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帰沖へ

朝6時過ぎのバスで秋田空港に向かい、羽田経由で沖縄に帰ります!

暑そうだな…。
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by nozakoji | 2011-04-27 05:36 | その他

寝袋生活四日目

被災地医療支援に入ってからは、メンバーとともに公共施設のフローリングの部屋(ヨガとか練習する感じ。)で寝泊まりしています。

ヨガマット?のようなものを敷いて、その上に寝袋で寝ているのですが、予想以上に快適です。

しかし、そんな生活も本日で最後です。明日の朝に医療支援を行った後、盛岡に移動してホテル泊となります。


ベッドで眠れるのは嬉しいことなんですが、患者さんや、仲良くなった東京の保健師さんと別れるのはやっぱり寂しいですね…。
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by nozakoji | 2011-04-25 23:20 | その他

被災地への医療支援

母が亡くなり二週間が経ちました。

沖縄に帰って来てからは、休み、ドクヘリ待機、ドクヘリ待機、休みという4日間を過ごしました。

そして、22日からは岩手県宮古市に沖縄県医療班の10チーム目として活動しております。

宮古市はライフラインが復帰しているため他の地区に赴任している医療チームに比べると、恵まれた環境下で活動することが出来ています。

今のところ、元気に過ごしていますが、PCを持参していないため後日報告いたします( ̄^ ̄)ゞ

では、また。
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by nozakoji | 2011-04-24 18:50 | その他

母の死

 頚椎症の症状が悪化していたため、しばらく休んでいましたが、今日よりブログを再開いたします。



 先日、このブログの読者でもあった私の母が亡くなりました。69才でした。


 4月11日、深夜2時ごろのことです。

 癌の末期で闘病中の北国の母が「午前1時45分に亡くなった」と父から電話がありました。状態悪化の電話が数日前にあったため、私は翌日から見舞いに行くため職場で残務作業をしていたときのことです。


 平成13年に大腸がん手術(進行癌。5年生存率50%の進行度。)、その後肝転移が見つかり抗癌剤治療後に切除手術、さらにリンパ節転移、肺転移に対しての抗がん剤治療、計9年間、本当に頑張ってきました。 がんの治療は私の専門外ですが、肝切除の全身麻酔は私が担当することが出来ました。この時は「息子が医師で心強かった」と思ってくれたようです。

 肝切除手術までは「完治するのではないか」と思っていようですが、後半は「進行を遅くさせるための治療」と分かってからはきっと死の恐怖とも戦っていたように思います。冗談ぽく、

 「なかなか「千の風」になれないみたい。」

 と私に言うこともありました。


 抗癌剤治療でつらかったのは、脱毛、手足のしびれ、そして下痢症状だったと思います。また、年齢のためか抗癌剤のためか分かりませんが、両耳の聴力がかなり悪くなり、それによって人の話が聞き取れないということもかなりのストレスであったようです。
 

 2年前、それまで悩んでいた下痢症状が奇跡的によくなった時期があり、沖縄に父母を招待できたことが、闘病中の母を地元に置いて沖縄に来てしまった「親不孝息子」からの最後の親孝行でした。母の希望を聞いて計画を立てて、ちゅら海水族館や、沖縄の海の青さ、海水の暖かさに喜んでくれました。娘の学校の参観日にも参加できたなあ。



 昨年末、病状が悪化しました。腹水が増えて癌の進行が疑われたため、急遽帰郷し年末をホテルで一緒に過ごしました。

 今年2月末には呼吸・意識状態が悪くなり、再度帰郷しましたが、アミノレバン(高アンモニア血症になっていた)や利尿薬などでなんとか回復し、私や妻子とも会話ができたのが本当によかったと思っています。

 亡くなる数日前には、娘が出したはがきに対する返事が書かれた数行の手紙が届きました。文字は震えていて、ところどころ判別できないようなものでした。
 父に「清書してから出して」と言っていたようですが、父はそのままの手紙を封筒に入れて送ってくれました。以前の字がきれいなときの母の字を思い出すと、涙が出てしまいました。

 亡くなる数日前から呼吸苦に対してモルヒネの静注がおこなわれ、苦痛は十分に取って頂いたようで、主治医や病棟のスタッフには本当に感謝しております。抗癌剤投与が100回に到達したときは、病棟の師長が手作りケーキを作ってくれたそうで、とても喜んでおりました。(普通は100回に到達しないそうです。その前になくなってしまうか、良くなって中止になるのでしょう。)


 
 ものすごく計画的で几帳面な母でした。それは亡くなってからも感じることができました。

 
 ■自分が亡くなると家事のできない父が困ると思い、炊事洗濯などを少しずつ教えていましたし、家の至る所に「ここには何がある」ということがわかるように付箋が貼ってありました。(今では父は私なんかより上手に料理を作ります。葬儀後の朝食は父が作ってくれました。)

 ■またアルバムに「ここを見て」という付箋があり、その中には笑顔の写真があり、「遺影用」と書いてありました。葬儀ではもちろんその写真を使用しました。自分の経歴もきちんとまとめてあったようです。その中に、「肝臓切除手術は息子が麻酔を担当した」という一文が書かれていたようです。

 ■家族、親類に向けて「最後の手紙」という遺書がありました。書き始めたのは死を意識した平成19年の2月。その後、少しずつ書き足されていました。40才を過ぎた私への「忠告」もいくつか書かれていました。すべて母の言うとおりでしたので、改善していきたいといまさらながら思っています。残された父のことも支えていかなくてはなりません。



 私は当初、2年の予定で沖縄に来たのに、すでに5年目に入りました。

 地元の施設からも誘っていただいていたので帰るチャンスは何度もありました。でも、術後の腰下肢痛に悩まされている私にとっては沖縄の気候はあっていたこと、癌で闘病中ではあっても母が死ぬイメージが具体的に浮かばなかったこと(医者なのに変ですよね・・・。でも事実なんです。自分の母の死は想像できないでいたのかもしれません。)から、帰郷するに至りませんでした・・・。

 
 本当に親不孝息子でした。医師免許があっても、親の癌に対してはほとんど力になれませんでした。

 臨終にも立ち会えませんでした。それだけは心残りですが、母校の教授が「近くにいても必ず後悔はするもんだよ。」といって下さり、少しだけ救われた気持ちになりました。




 自分は明後日から被災地への医療支援に行ってきます。母も私が被災地に行くことは知っておりました。
 
 もう少し、母の死が遅くなればきっと行かなかったと思います。でも、計画的な母なので、「死後10日間もあれば準備できるでしょう。」という思いもあったのではと勝手に思っております。まだ余震も多いし、津波の起きる可能性もまだあるようですが、きっと母が守ってくれることでしょう。(こんな時だけ母に頼るなんてずるい息子です)


 最後に。

 母には

 「41年間、育ててくれて本当にありがとう、そして長期間の闘病生活お疲れさまでした。」

 と言いたいです。



 
 以上、乱文ですいません。また、母の死に際し、多くの方から温かなお言葉を頂いたことにも感謝いたします。


 
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by nozakoji | 2011-04-20 11:28 | 自分の話

救急専門医、麻酔科認定医・標榜医。北から沖縄に移住→再び北上した感想など…。(救急には無関係な内容が多い!ペインクリニック患者でもあります。)症例は設定変更しています。
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